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第1話 診察室の距離

last update publish date: 2026-07-22 17:22:34

「朝倉透さん、どうぞ」

呼ばれた名前に、透は顔を上げた。待合室の椅子から立ち上がり、白衣の看護師について診察室へ向かう。廊下の蛍光灯が妙に明るく感じられて、無意識に目を細めた。

「どうぞ、こちらへ」

案内された診察室は、思っていたより狭かった。いや、狭いわけではない。ただ、医師との距離が近い。透はそれだけで少し緊張した。

「初診ですね。では、問診票を確認させていただきます」

声は落ち着いていて、低い。透は椅子に座りながら、カルテに目を落とす医師の横顔をちらりと見た。30代前半だろうか。細いフレームの眼鏡、整った顔立ち。でも表情が、ひどく静か

だ。

「最近、視界に歪みを感じるとのことですが」

「はい、画面を長時間見ていると、文字がぼやけるというか……輪郭が滲んで見えることがあって」

透は、できるだけはっきりと答えようとした。医師はうなずき、ペンを置いてこちらを向いた。

「では、診察を始めます。こちらを見てください」

神谷恒一と名札に書かれた医師は、ペンライトを手に取り、透の顔に近づいた。

光が瞳に当たる。

透は反射的に、視線を逸らしかけた。でも、ここは診察室だ。目を見られるのが仕事だ。そう自分に言い聞かせて、なんとか視線を保った。

「右目、左目……はい、ありがとうございます」

神谷の声は変わらず淡々としていた。でも、透はその瞬間、奇妙なことに気づいた。

この医師は、自分の"目"ではなく、"瞳"を見ている。

表面的な視線の先ではなく、その奥を覗き込んでいるような──そんな感覚。

透の背中に、冷たい汗が滲んだ。

「次に、細隙灯で詳しく診ますね。顎をここに

乗せて、額をここに当ててください」

言われるままに顔を固定する。目の前に、拡大レンズと光源を備えた機械が迫ってくる。

「では、こちらを見てください」

神谷の顔が、レンズ越しにすぐそこにあった。

透は、息を止めた。

この距離で、誰かの瞳をまともに見たのは、いつ以来だろう。

神谷の瞳は、グレーがかった茶色だった。感情の読めない、静かな色。でも、冷たいわけではない。ただ、何も映していないような──そんな透明さがあった。

「少し眩しいですが、我慢してください」

光が当たる。透は反射的にまばたきをしそうになったが、ぐっとこらえた。

神谷の視線が、透の瞳の表面を、その奥を、

じっと観察している。

(見ないで)

透の心の中で、誰かが叫んだ。

(そんなに見ないで)

でも、神谷は見ることをやめなかった。それが仕事だから。ただそれだけの理由で、この人は透の瞳を覗き込み続けている。

「……はい、終わりました」

神谷がレンズから離れ、透も顔を上げた。

一瞬だけ、ふたりの視線が正面から交わった。

透は慌てて目を伏せた。神谷は何も言わず、カルテに視線を戻した。

「眼底には異常ありません。ただ、かなり疲労が蓄積していますね。お仕事は、デスクワークですか?」

「はい。広告関係で……一日中、画面を見ていることが多いです」

「なるほど」神谷はうなずき、処方箋を書き始めた。

「眼精疲労です。目薬と、ビタミン剤を出しておきます。それと──」

神谷はペンを止め、顔を上げた。

「一時間に一回は、遠くを見るようにしてください。できれば、緑を」

「……緑、ですか」

「ええ。目の筋肉をリラックスさせるために」

そう言って、神谷は再びカルテに視線を戻した。

透は、その横顔を見ながら思った。

この人は、いつもこんなふうに人を診ているのだろうか。

感情を排して、ただ静かに、相手の瞳を覗き込む。

そして、何を見ているんだろう。

「二週間後、また診せてください。それまでに症状が悪化するようなら、早めに来院してください」

「はい、ありがとうございました」

透は立ち上がり、一礼した。神谷も軽く頷いた。

診察室を出るとき、透は振り返らなかった。

もし振り返ったら、また視線が交わってしまいそうで。

それが、怖かった。

待合室で処方箋を受け取り、透はクリニックを出た。

駅へ向かう道を歩きながら、透は無意識に、自分の目元を触っていた。

神谷の視線が、まだ残っているような気がした。

あの人は、何を見たんだろう。

ただの疲れた目?

それとも──

透は首を振り、その考えを追い出した。

深く考えることじゃない。ただの診察だ。二週間後、また行って、治ったら終わり。

それだけのことだ。

そう自分に言い聞かせながら、透は人混みに紛れていった。

その夜、神谷恒一は自宅のソファに座り、コーヒーカップを手にしていた。

今日の患者の顔が、何人か頭をよぎる。いつものことだ。診察が終わっても、気になる症例は記憶に残る。

でも、今日は少し違った。

朝倉透──あの患者のことが、妙に引っかかっていた。

診断は簡単だった。典型的な眼精疲労。処置も、処方も、何の問題もない。

でも。

(あの人は、目を合わせるのが怖いんだ)

神谷は、診察中にそれを感じた。

視線を合わせているようで、ほんの少しだけずらす。瞳に映ることを、拒んでいるような動き。

それは、神谷自身がよく知っている仕草だった。

カップを口元に運び、神谷は小さく息をついた。

(なんで、あんなことに気づいてしまったんだろう)

もう、関係ない。

二週間後、また診れば、それで終わりだ。

そう思いながらも、神谷の中で、ひとつの問いが消えなかった。

──あの人の瞳は、誰を映したがっているんだろう。

そして、誰に見られたがっているんだろう。

窓の外に、街の灯りが瞬いていた。

神谷は、その光をぼんやりと見つめながら、

コーヒーを飲み干した。

視線が交わらなかった、ふたりの夜。

物語は、静かに動き始めていた。

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