LOGIN「朝倉透さん、どうぞ」
呼ばれた名前に、透は顔を上げた。待合室の椅子から立ち上がり、白衣の看護師について診察室へ向かう。廊下の蛍光灯が妙に明るく感じられて、無意識に目を細めた。 「どうぞ、こちらへ」 案内された診察室は、思っていたより狭かった。いや、狭いわけではない。ただ、医師との距離が近い。透はそれだけで少し緊張した。 「初診ですね。では、問診票を確認させていただきます」 声は落ち着いていて、低い。透は椅子に座りながら、カルテに目を落とす医師の横顔をちらりと見た。30代前半だろうか。細いフレームの眼鏡、整った顔立ち。でも表情が、ひどく静か だ。 「最近、視界に歪みを感じるとのことですが」 「はい、画面を長時間見ていると、文字がぼやけるというか……輪郭が滲んで見えることがあって」 透は、できるだけはっきりと答えようとした。医師はうなずき、ペンを置いてこちらを向いた。 「では、診察を始めます。こちらを見てください」 神谷恒一と名札に書かれた医師は、ペンライトを手に取り、透の顔に近づいた。 光が瞳に当たる。 透は反射的に、視線を逸らしかけた。でも、ここは診察室だ。目を見られるのが仕事だ。そう自分に言い聞かせて、なんとか視線を保った。 「右目、左目……はい、ありがとうございます」 神谷の声は変わらず淡々としていた。でも、透はその瞬間、奇妙なことに気づいた。 この医師は、自分の"目"ではなく、"瞳"を見ている。 表面的な視線の先ではなく、その奥を覗き込んでいるような──そんな感覚。 透の背中に、冷たい汗が滲んだ。 「次に、細隙灯で詳しく診ますね。顎をここに 乗せて、額をここに当ててください」 言われるままに顔を固定する。目の前に、拡大レンズと光源を備えた機械が迫ってくる。 「では、こちらを見てください」 神谷の顔が、レンズ越しにすぐそこにあった。 透は、息を止めた。 この距離で、誰かの瞳をまともに見たのは、いつ以来だろう。 神谷の瞳は、グレーがかった茶色だった。感情の読めない、静かな色。でも、冷たいわけではない。ただ、何も映していないような──そんな透明さがあった。 「少し眩しいですが、我慢してください」 光が当たる。透は反射的にまばたきをしそうになったが、ぐっとこらえた。 神谷の視線が、透の瞳の表面を、その奥を、 じっと観察している。 (見ないで) 透の心の中で、誰かが叫んだ。 (そんなに見ないで) でも、神谷は見ることをやめなかった。それが仕事だから。ただそれだけの理由で、この人は透の瞳を覗き込み続けている。 「……はい、終わりました」 神谷がレンズから離れ、透も顔を上げた。 一瞬だけ、ふたりの視線が正面から交わった。 透は慌てて目を伏せた。神谷は何も言わず、カルテに視線を戻した。 「眼底には異常ありません。ただ、かなり疲労が蓄積していますね。お仕事は、デスクワークですか?」 「はい。広告関係で……一日中、画面を見ていることが多いです」 「なるほど」神谷はうなずき、処方箋を書き始めた。 「眼精疲労です。目薬と、ビタミン剤を出しておきます。それと──」 神谷はペンを止め、顔を上げた。 「一時間に一回は、遠くを見るようにしてください。できれば、緑を」 「……緑、ですか」 「ええ。目の筋肉をリラックスさせるために」 そう言って、神谷は再びカルテに視線を戻した。 透は、その横顔を見ながら思った。 この人は、いつもこんなふうに人を診ているのだろうか。 感情を排して、ただ静かに、相手の瞳を覗き込む。 そして、何を見ているんだろう。 「二週間後、また診せてください。それまでに症状が悪化するようなら、早めに来院してください」 「はい、ありがとうございました」 透は立ち上がり、一礼した。神谷も軽く頷いた。 診察室を出るとき、透は振り返らなかった。 もし振り返ったら、また視線が交わってしまいそうで。 それが、怖かった。 待合室で処方箋を受け取り、透はクリニックを出た。 駅へ向かう道を歩きながら、透は無意識に、自分の目元を触っていた。 神谷の視線が、まだ残っているような気がした。 あの人は、何を見たんだろう。 ただの疲れた目? それとも── 透は首を振り、その考えを追い出した。 深く考えることじゃない。ただの診察だ。二週間後、また行って、治ったら終わり。 それだけのことだ。 そう自分に言い聞かせながら、透は人混みに紛れていった。 その夜、神谷恒一は自宅のソファに座り、コーヒーカップを手にしていた。 今日の患者の顔が、何人か頭をよぎる。いつものことだ。診察が終わっても、気になる症例は記憶に残る。 でも、今日は少し違った。 朝倉透──あの患者のことが、妙に引っかかっていた。 診断は簡単だった。典型的な眼精疲労。処置も、処方も、何の問題もない。 でも。 (あの人は、目を合わせるのが怖いんだ) 神谷は、診察中にそれを感じた。 視線を合わせているようで、ほんの少しだけずらす。瞳に映ることを、拒んでいるような動き。 それは、神谷自身がよく知っている仕草だった。 カップを口元に運び、神谷は小さく息をついた。 (なんで、あんなことに気づいてしまったんだろう) もう、関係ない。 二週間後、また診れば、それで終わりだ。 そう思いながらも、神谷の中で、ひとつの問いが消えなかった。 ──あの人の瞳は、誰を映したがっているんだろう。 そして、誰に見られたがっているんだろう。 窓の外に、街の灯りが瞬いていた。 神谷は、その光をぼんやりと見つめながら、 コーヒーを飲み干した。 視線が交わらなかった、ふたりの夜。 物語は、静かに動き始めていた。月曜日の朝は、いつも気が重い。透は駅のホームで電車を待ちながら、スマホの画面を眺めていた。週末にたまったメールの通知が並んでいる。既読をつけただけで返信していないものが、十件以上。「面倒だな……」小さくつぶやいて、透はスマホをポケットにしまった。電車に乗り込む。いつもの車両、いつもの位置。透はつり革につかまり、目を閉じた。ふと、先週の診察のことを思い出す。(一時間に一回、遠くを見るように)神谷医師の声が、頭の中で再生された。(できれば、緑を)緑。オフィスビルの中に、そんなものあるだろうか。せいぜい、休憩スペースに置かれた小さな観葉植物くらいだ。透は目を開け、車窓の外を見た。流れていく景色の中に、街路樹の列が見える。まだ冬の終わりで、枝は寂しげだったが、それでもところどころに緑の葉が残っていた。(ああ、そういえば)透は、最近、緑を見ていなかったことに気づいた。空を見上げることも、木を見ることも、遠くの景色を眺めることも。いつの間にか、視界の中にあるのは画面と、書類と、人の顔だけになっていた。電車が駅に着く。透は人の流れに身を任せ、改札を抜けた。オフィスに着くと、デスクには既に書類が積まれていた。「おはよう、朝倉さん。週末、クライアントから急ぎの案件が入っちゃって」先輩の田中が、申し訳なさそうに言った。「あ、大丈夫です。今日中にですか?」「できれば。悪いね」「いえ、やります」透は笑顔で答え、コートを脱いでデスクに座った。PCを起動し、メールを開く。画面の明るさが目に刺さるような気がして、透は設定で輝度を少し下げた。(一時間に一回、遠くを見る)神谷の言葉が、また頭をよぎった。透は時計を見た。午前九時。(じゃあ、十時になったら)そう決めて、透は仕事に集中し始めた。十時。アラームが鳴った。透は手を止め、顔を上げた。周りを見渡す。誰もこちらを見ていない。みんな、自分の仕事に夢中だ。透は立ち上がり、窓際へ歩いていった。オフィスは八階にある。窓からは、隣のビルと、その向こうに広がる街並みが見えた。透は窓に手をつき、遠くを見ようとした。でも、何を見ればいいのか分からなかった。ビル、道路、車、人。どれも近く感じられて、"遠く"がどこにあるのか分からない。(緑……)透は視線を動かし、ようやく小さな公園を
「朝倉透さん、どうぞ」呼ばれた名前に、透は顔を上げた。待合室の椅子から立ち上がり、白衣の看護師について診察室へ向かう。廊下の蛍光灯が妙に明るく感じられて、無意識に目を細めた。「どうぞ、こちらへ」案内された診察室は、思っていたより狭かった。いや、狭いわけではない。ただ、医師との距離が近い。透はそれだけで少し緊張した。「初診ですね。では、問診票を確認させていただきます」声は落ち着いていて、低い。透は椅子に座りながら、カルテに目を落とす医師の横顔をちらりと見た。30代前半だろうか。細いフレームの眼鏡、整った顔立ち。でも表情が、ひどく静かだ。「最近、視界に歪みを感じるとのことですが」「はい、画面を長時間見ていると、文字がぼやけるというか……輪郭が滲んで見えることがあって」透は、できるだけはっきりと答えようとした。医師はうなずき、ペンを置いてこちらを向いた。「では、診察を始めます。こちらを見てください」神谷恒一と名札に書かれた医師は、ペンライトを手に取り、透の顔に近づいた。光が瞳に当たる。透は反射的に、視線を逸らしかけた。でも、ここは診察室だ。目を見られるのが仕事だ。そう自分に言い聞かせて、なんとか視線を保った。「右目、左目……はい、ありがとうございます」神谷の声は変わらず淡々としていた。でも、透はその瞬間、奇妙なことに気づいた。この医師は、自分の"目"ではなく、"瞳"を見ている。表面的な視線の先ではなく、その奥を覗き込んでいるような──そんな感覚。透の背中に、冷たい汗が滲んだ。「次に、細隙灯で詳しく診ますね。顎をここに乗せて、額をここに当ててください」言われるままに顔を固定する。目の前に、拡大レンズと光源を備えた機械が迫ってくる。「では、こちらを見てください」神谷の顔が、レンズ越しにすぐそこにあった。透は、息を止めた。この距離で、誰かの瞳をまともに見たのは、いつ以来だろう。神谷の瞳は、グレーがかった茶色だった。感情の読めない、静かな色。でも、冷たいわけではない。ただ、何も映していないような──そんな透明さがあった。「少し眩しいですが、我慢してください」光が当たる。透は反射的にまばたきをしそうになったが、ぐっとこらえた。神谷の視線が、透の瞳の表面を、その奥を、じっと観察している。(見ないで)透の心の中で、誰かが
視線が、怖い。 朝倉透は今日も、誰かの目を見ているふりをしながら、実際には相手の眉間や鼻先ばかりを見ていた。 「朝倉さん、さすがですね。このキャッチコピー、クライアント絶対喜びますよ」 上司の声が耳に届く。透は口角を上げ、ちょうどいい角度でうなずいた。「ありがとうございます」と返す声も、練習してきたような自然さで。 会議室を出て、自分のデスクに戻る。PCモニターに映った自分の顔は、いつも通り「ちゃんとしている」ように見えた。でも、どこか他人のような気がする。 ふと、視界が揺れた。 最近、画面を見続けていると文字の輪郭が滲む。目の奥が重い。多分、疲れているだけだ。そう思って、透はまた仕事に戻った。 その夜、一人のアパートで鏡を見ながら目薬をさそうとして、透は自分の瞳をまともに見つめた。 何秒も、視線を逸らせなかった。 鏡の中の自分は、困ったように笑っていた。 「……なんで、俺、こんな顔してるんだろう」 声に出した瞬間、ひどく恥ずかしくなって、透はすぐに目を伏せた。 誰にも見られていないのに。 誰にも見られていないから、か。 翌朝、透は眼科の予約を入れた。ただの眼精疲労だと思っていた。すぐ治るはずだと。 でも、その日の診察室で出会った医師の瞳は、透が今まで避け続けてきたすべてを見透かすように、静かで、冷たくて、それなのにどこまでも優しかった。 そして透は、初めて逃げられなかった。 「では、こちらを見てください」 神谷恒一は、いつも通りの声でそう告げた。 細隙灯の光が、患者の瞳を照らし出す。 診察中、神谷は何度も気づいてしまう。この人は、こちらの目を見ているようで、実際には少しだけ視線をずらしている。まるで、瞳に映ることを拒んでいるかのように。 「……特に異常は見られませんが、眼精疲労がかなり進んでいますね」 神谷は診断を告げ、処方せんを書きながら、ふと思った。 この人の瞳は、何を映したがっているのだろう。 そして、何を映すことを恐れているのだろう。 診察が終わり、患者が礼を言って立ち去る。神谷は次の患者を呼びながら、その背中をほんの一瞬だけ目で追った。 それが、すべての始まりだった。 視線が交わらなかった、ふたりの物語の。